YJ COUNSELING OFFICE blog

福山市にある『みんなのカウンセリングルーム』の代表ブログです。

トラウマとは何か(2)~「体験」から紐解くトラウマについて~

前回は、トラウマ(ここでは、「こころのキズ」)を理解することの難しさについて触れてみました。

yjcounseling.hatenablog.com

 

今回は、「こころのキズ」がついたときに、僕たちはどうなってしまうのか、ということについて書いてみたいと思います。本題に入る前に、少し、余談ですが、前回の記事に対するアクセスの数が、どの過去の記事に比べても多かったので、「こころのキズ」、トラウマという言葉への関心は、皆さんの中で高いのかなと改めて感じました。

 

さて、今日のテーマを説明するに当たって、遠回りのようですが、人間の「体験」という問題と、「記憶」という問題について、触れてみたいと思います。少し、小難しい哲学的且つ心理学的な問題も含みますが、できるだけ、分かりやすく書くように努めます(※正確さを求めるが故、やや回りくどくなる部分もあるのでご了承ください。)

 

僕たちは、生活をしていく中で、いろんなことを体験しています。そもそも、生活というもの自体が、ひとつの体験とも言えるのですが、体験とは、分かりやすく言うと、何かを見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったり、また、身体を動かしたりと、身体のあらゆる部位を使って、「世界と関係を結んでいくこと」と言えます。

 

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こうして「ブログを書く」という体験も、「ユンジソン」という存在が、パソコンや、キーボード、もしくは、ブログを見ている人達といった、自分以外の「世界」と、なんらかの関係を結んでいることから成り立っています。

関係を結ぶということは、なにか一方的に相手や世界に影響を与えているだけではなく、それぞれが、互いに影響し合うことを意味しています。また、体験とは、必ず、そのことによって、「自分自身の変化(変容)」というものを伴っています。

一番分かりやすい変化が、「感覚的な変化」です。おいしいものを食べ時に、「おいしいと感じる」、柔らかい毛布にふれると、「気持ちいいと感じる」、叩かれると、「痛いと感じる」といったことです。実際に、目の前に美味しいものがあったとしても、それを、食べてみて、身体の中に、なんらかの変化が生じなければ、「美味しいものを食べた」という体験にならないことは、言うまでもありません。

 

実は、このような体験、つまり、「世界と関係を結ぶ」ということと、「こころのキズ」という問題は、深く関係しています。結論からまず言いますと、「こころのキズ」がつくということは、自分自身が体験したショックな出来事、つまりそれは、その時いったんは結んでしまった(もしくは、結ぼうとした)世界との関係が、「とりやめになったり」「なかったことになったり」「切れ離されてしまう」ということが、起きることをいいます。

 

なぜ、そんなことが起きてしまうのでしょうか。

 

体験とは、先にも触れたように、「世界と関係を結ぶこと」なのですが、もう少し、話を掘り下げてみますと、僕達は、世界と関係することで、世界と自分との境界接線面を自覚することができます。

そのような境界や接線面によって、いうまでもなく、世界とは繋がっているが、微妙に分離されている「自分」というものを“体験”することができます。つまり、体験という話から、「自分」という存在について紐解いていくと、それは、体験の中に含まれる感覚的な変化の後に生じる、副産物のようなものだと言えます。この副産物として、「自分」を感じることは、僕たちにとって、とても心地よく、極めて大切なことでもあります。また、体験の中で感じる、「自分」という容器の中に、「自分自身の変化」という現象が“既に”取り込まれていることによって、僕たちは、「生きている」という「命の感覚」を得ることができます。

少し話はそれますが、自傷行為リストカット等)をしてしまう背景に、自分の身体を傷つけ、そのことによって、痛みというプリミティブな感覚の変化を感じることで、「自分は、まだ、生きているんだ」と感じてしまう心理が潜んでいることを考えると、この体験の問題とよく似ているのかもしれません。

逆に言うと、そのような体験を持たざるを得ないほどの「自分じゃなくなる感じ」が前提としてあるということ、また、その前提を抱えた時の恐ろしいほどの恐怖感が、なんとなくですが、理解ができ、その辛さがクライエントの語りからひしひしと伝わってきます。よく、自傷行為について、世間では割と「みんなの気を引くためだ」とわれることも多いですが、それは、まったくの大きな誤解だと言えます。

 

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さて、本題に戻りまして、「こころのキズ」がつくという出来事とは、自分自身の命や心の危機に瀕する出来事によって、心理的なショックをうけることであります。そのことは、前回のブログでもふれたように、それは、「自分という存在の危機」として体験されます。しかし、そもそも、体験とは、「自分」という存在や、「生きている」ことの自覚を与えてくれるものですが、このトラウマ的な体験も、体験の一つなので、まさに、一機にその相反する感覚がぶつかり合うことになります。この体験によってぶつかり合う生死をめぐる矛盾が、「こころのキズ」の前提となるのではないでしょうか。

 

その時に、僕たちのこころが、そのことの矛盾に、どう折り合いをつけて、「自分」という存在を保つのでしょうか。その方法が、まさに、先の結論でも申し上げた通り、とりあえずは、そのトラウマ的な体験、つまり、「トラウマ的世界との関係」を一旦、「とりやめにしたり」「なかったことにしたり」「切り離す」という選択をすることで折り合いをつけてしまうのです。

しかし、一旦はその時、「自分」という存在と、世界との境界と接線面は、大きく引き裂かれ、「自分があいまいになり」、「自分の変化」が感じられなくなり、生きている心地はなくなります。なぜなら、一度は関係を結んだ部分を、強引に断ち切るわけですから、場合によっては、断ち切られた世界のほうに、「自分」が残ってしまったり、切り離された世界と一緒にえぐられた「自分」の部分に、世界の断片がこびりついたりするからであります。

 

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そのような状態の中で、次第に、自分を取り巻く世界が、凍り付くような感覚(時間がとまったような感覚)に襲われてしまいます。このことは、よく交通事故に体験した方が共通しておっしゃる、「スローモーション」として理解することができます。

 

このような、一時的な混乱を乗り越えると、徐々に元の自分に戻っていきます。そのような形で、逆説的且つアクロバティックな方法をもって、かろうじて、僕たちのこころは、「自分」という存在を守ろうと働いてしまうのです。

しかし、このような変則的、事故的な方法によって、ある種の体験から、自分を守ることができるのかというと、短期的には可能であったとしても、長期的には無理が生じてしまいます。

そのことは、後に様々なトラウマ反応の表出によって明らかになってきます。その象徴的な現象が、フラッシュバックといった追体験なのですが、先ほどの説明でもあったように、切り離した世界と一緒に、自分の一部も失われていること、また、断片的に世界が自分と結びついていることから、「断片的体験」としての「危機」はどうしても残ってしまうのです。

実は、そのような、「断片的体験」として「危機」が、短期的には、自分を保てていても、長期的には無理が生じてしまうものリスクとして残り、そこに、さらなる拍車をかけてしまうもの中に、僕たちの「記憶」という問題が深く関係しているということなのです。

 

今日は、ここまでとして、次回は、「記憶」の問題について、書いてみます。

 

 

【今日のおさらい】

 ●「体験」とは、「世界と関係を結ぶこと」

 ●「体験」を通じて、「自分は生きていること」を自覚する。

 ●「トラウマ的体験」は、「自分の危機」と「自分は生きている」という矛盾の衝突

 ●  矛盾の折り合いの付け方が、「世界と自分を切り離すこと」。

 

 

 

 

 

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