YJ COUNSELING OFFICE blog

福山市にある『みんなのカウンセリングルーム』の代表ブログです。

恥かしがらずに堂々とするには(前編)~「恥かしさ」とは何か~

恥かしがらずに堂々としていることは、世の中を生き抜いていく上で、とても大切な教訓のひとつであります。

 

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しかし、多くの人にとって、そのように振る舞うことが、どれだけ難しいことかは、説明しなくともわかっていただけると思います。

僕も、幼い頃から父親には、「恥かしがらずに堂々としろ!」とよく叱られたものです。父親が言っていることは頭では正しいことだとわかっていても、思うようにいきません。堂々としろと言われても、すぐに堂々とできるわけではなく(むしろ、そういわれると余計にできない)、この「恥かしさ」という圧倒的な感情の前に、あっさりと白旗を揚げ、敗北を余儀なくされる毎日でありました。

大人になった今でも、それはあまり変わっていないような気もします。何を隠そう、エラそうなことを言っていた父親自身も、兄の結婚式のスピーチを頼まれ、ガチガチに緊張してしまい、ほとんど、ペッパー君のような棒読みになっていたという滑稽な事実を目の当たりにして、「あなたこそ堂々としろよ!」と心の中でツッコミを入れたこともあり、「堂々とできる人なんて、この世にはいないのではないか」と、虚無感に襲われた次第であります。

 

 ボ ク ノ ハ ナ シ ハ サ テ オ キ …。

 

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一体、「恥かしさ」という感情は何者なのでしょう。

 

「こんな感情さえなければ、世の中をもって楽に、堂々と生きていけるのに…」と思うことは、多かれ少なかれ、皆さんにもあるのではないでしょうか。

 

「恥かしくて、声が出ない」

「恥かしくて、人前に立てない」

「恥かしくて、人とうまく関われない」

「恥かしくて、死にそうだ…」 etc.

 

一体、何の為に、このような感情が人間には宿っているのでしょうか。本当に困った話であります。

 

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心理学の世界では、どんな感情にも必ず、そこには肯定的な意味が存在し、それは、なんらかの目的を達成する為にあると言われております。

発達という側面からその感情を紐解いていくと、赤ちゃんが、「人見知り」をすることに、由来すると言われております。人見知りとは、皆さんご存知のように、大人や他者が、赤ちゃんと関わろうとしても、その赤ちゃんが、目を合わせてくれなかったり、無視したり、泣いたり、時には攻撃的に振る舞ったり、隠れようとしたりするような一連の行動のことであります。

このようなトリッキーな行動を起こさせる心理的な背景に、「恥かしさ」という原始的な感情が隠れていると言われております。赤ちゃんの人見知りには、どんな意味があり、果たしてそれは、どんな目的を達成するために存在しているのでしょうか。

大人側の視点に立ってみると、人見知りされると、わずかですが、「この子は、かわいくないな…」と思ってしまったり、「なんかまずいことしたのかな?」と自分の“無邪気さ”を顧みたり、結果として、それ以降、その赤ちゃんに、“過剰に”関わることを諦めて、節度を持って対応するようになります。つまり、この人見知りという行動は、相手からの過剰のかかわりや、“侵入”をコントロールする機能を果たしているのかもしれません。

一方、赤ちゃん側の視点に立ってみると、自分にとって敵か味方か“よくわからな奴”が、自分にかかわろうとする時、予測不可能な事態に備えて、とりあえず、自分の安全を守ることができます。人見知りすることで、自分を守れる、つまり、一次的には、人見知りに内包する、この「恥かしさ」という感情は、「他者から自分を守る為」にあるのかもしれません。また、守るだけではなく、「他者をうまくコントロールすること」にもその目的があるのかもしれません。二つの目的を組み合わせてみると、「自分を守るために、なにかをコントロールする」ということになるのかもしれません。

 

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それでは、果たして、この「恥かしさ」は、自分の“なにを”守っているのでしょうか

実は、その答えは比較的簡単で、僕たちが日常的に「恥かしさ」を感じる体験を思い起こせばわかるかと思います。皆さんは、どんな時に「恥かしさ」を感じますか? 自分の“なにを”守ろうとしていますか? 答えは、「人に見られたくない自分(部分)」「隠したい自分(部分)」を守ろうとしている、といことになろうかと思います。

人は、「人に見られたくない自分(部分)」「隠したい自分(部分)」が見られると、「恥かしい」と感じてしまいます。「人に見られたくない部分が見られたから、恥ずかしいと感じる」という心の動きは、素朴な解釈であって、実は、心理学的な見方でみると、「恥かしいと感じたから、それが、“人に見られたくない部分であった”と気付く」という理屈として理解する必要があります。つまり、「恥かしさ」という感情は、普段自分では、あまり意識することのない、「自分が人に見られたくない部分」を、改めて僕たちに教えてくれているのです

極端なことを言うと、「恥かしい」という感情がなければ、僕たちは、「自分が何を隠したいのか」「何を見られたくないのか」がよくわからなくなってしまう、ということでもあります。

わからなくなるとどんな不都合がおきるのか。「隠したい部分」や「見られたくない部分」が露呈されると、時に、それは、人から「弱み」「弱点」として、理解されたり、「攻撃材料」としてかっこうの餌食になったり、また、そのことをうまく利用されてしまい、自分自身が相手の思うようにされてしまう可能性や危険性が生じてしまいかねません。相手の思うようになってしまうことは、人間にとって、本質的に耐えがたいものであります。

これと似たようなことが、カウンセリングにおいても起こるのですが、時折、クライエントが自分自身の話(「人には恥ずかしくて言えない話」は特に)をし過ぎてしまって、なんとなく、カウンセラーのことが怖くなってしまうことがあります。「カウンセラーは、自分の弱みを知って操ろうとしているのではないか」という考えが頭から離れなくなり、カウンセリングをお休みするクライエントがいるのも事実であります。

先ほどの「恥かしさ」との関係でいうと、そう思えてしまうのも無理もありません。しかし、カウンセラーは、決して、「操ること」や「危害を加えること」はないので安心してください(尚、カウンセリングでは、なぜクライエントがそのような考えを持ってしまうのか、それをどう克服していけばいいのかという問題がテーマとなり、そのことによって、自己理解がさらに深まり、より強固な信頼関係が築いていいけるきっかけとなることがあるようです)。

 

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上記のように考えると、「恥かしい」と思う感情も、それが決してネガティブなものじゃない、自分を守ってくれる大切な味方なんだということが、なんとなくですが理解していただけたかと思います。しかし、実際に、僕たちが生活をしていると、「恥かしくて堂々とできない」という問題はなんとかして解決したいと思ってしまいます。

そのことの解決方法や、対応策については、【後編】で書いてみたいと思います。

 

「恥かしさ」も、自分を知る為の味方なんですね。

 

 

 

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 カウンセリングをご希望される方は、お気軽にご連絡ください。

☎ 0120-874-307(※対応時間:9時~21時)

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・職場の人間関係で悩んでいる

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・平日 17時 ~ 22時 / 福山市西町エフピコRiM7階 みんなのカウンセリングルーム

「大丈夫!」という声かけは、本当に大丈夫?

 「大丈夫!」という声かけは、本当に大丈夫なのでしょうか? 今日はそのことについて書いてみます。

 

生活していると、心配になることは沢山あります。

部屋を出た時、電気を消しただろうか、ちゃんと鍵を閉めただろうか、職場や学校に人とうまく話せるだろうか、試験でいい点数をとれるだろうか、企画会議でうまくプレゼンできるだろうか、インフルエンザにかからないだろうか…等々。

よく考えると、そもそも、明日、自分が生きているのかどうかも不確実な状況であるので(例えば、事故にあったり、病気になったり等)、心配なことをあげると実にきりがありません。しかし、人は、なんとなくですが、「そんなこと起こるはずがない!」と言って、「心配していること」をうまく否認できたり、「大丈夫!」と自分で自分に声かけしながら(自分のこころの声)、不確実な世の中を必至に生き抜いています。

 

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さて、カウンセリングの話でいうと、クライエントも「心配していること」を沢山抱えて、カウンセリングルームに来られます。その「心配していること」のあまりの多さに、自分ではもう、うまく否認できなかったり、「大丈夫!」と言い聞かすことができない状態になっていることで、大変お困りになられております。

実は、カウンセリングルームに来られる前にも、身の回りのいろんな人に「心配していること」を相談していることが多く、その都度、「大丈夫だよ」「気にしすぎだよ」と励まされているにも関わらず、クライエントの心の中にある「心配していること」は消えることはありません。「大丈夫」と、頭ではわかっているけど、「自分のこころの声」として「大丈夫」というその一言が出てきません。

これは、とても不思議なことであります。

 

そのような状態にあるクライエントに対して、カウンセラーが「大丈夫ですよ」と声かけしたとしても、クライエントの「心配していること」は消えることはありません。仮に、消えたとしても、それはほんの一瞬のことで、カウンセリングルームを出るときには、再び、「心配していること」に取り憑かれてしまうことが多いような気がします。

また、肝心なことは、カウンセリングルームに来られる時には、「心配していること」も当然、悩みなのですが、それ以上に、「こんな感じになっている自分は大丈夫なんですか?」という悩みになっていることがあるということです。

つまり、「心配しすぎな自分が、なにより心配」という、新しく、解決するに厄介な悩みを抱えてしまっているということです。

 

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カウンセラーとしては、「自分への信頼」が揺らいでいるクライエントに対して、「そのことが気になるあなた自身は、決しておかしくない」というメッセージを送るように関わっていきますが、信頼を回復するにはとても時間がかかります。その為に、クライエントとゆっくりと時間をかけて一つずつ、「そうだよね」という体験を重なていくしかありませんし、カウンセラーはそのために全力を尽くしていきます。

 

今日のブログでお伝えしたいことは、自分の目の前で、なにか「心配していること」を抱えている人がいた場合に、安易に、「大丈夫!」と声かけずに、しっかりその人が「心配していること」に耳を傾けてほしいということです。「大丈夫!」という声かけは、安心感をもたらすこともあるかと思いますが、再び、訪ずれる「心配していること」によって、「こんなことを心配している自分自身がおかしいのではないか?」という、新たな悩みや葛藤を生んでしまいかねません。

 

「大丈夫だよ」という声かけが、その人自身の内側から沸き起こる「心の声」として発せられるように、その人の抱える悩みに寄り添い、その人自身をしっかり信頼してあげることから始めてみましょう。

 

 

 

 

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「イライラしている人」への対処法

職場でのストレスが原因で,こころと体の調子を崩された方が,カウンセリングにこられることはよくあります。職場でのストレスと一言にいっても,お仕事の内容や職場環境によって,悩みの内容も様々であります。しかし,その悩みの中に割と共通していることが,「人間関係の悩み」であったりします。特に,その中でも、「イライラしている人」との関係において、悩まれているクライエントは多いような気がします。

 

今日は「イライラしている人」への対処法について書いてみます。

 

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「イライラしている人」は,朝から,“なぜか”イライラしております

その人のただならぬイライラオーラによって,職場の雰囲気はなんとなく悪くなってしまいます。普段なら気にならないような仕事上のちょっとしたミスでさえ,その人の目にとまったときは最後,執拗に叱責されたり,時には,心ない一言を浴びせられて、ひどく傷ついたりと…。

そうなってくると、職場でのみなさんは,「イライラしている人」の近くには、できるだけ,近づかないようにしながら,「今日は機嫌悪いな~」と察した日には,息を潜めるような形で、その日を過ごされたりしながら,一生懸命対処されております。

しかし,根本的なところで,その人のイライラに振り回されながら仕事をすることで、とても疲れてしまい,なんとなく,職場に行くことが嫌になったりもします。

 

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さて,「イライラ」には、どう対応したらよいのでしょうか

 

その為には,まず、「人はなぜイライラするのか」を考える必要があります。

人によって、イライラしやすい人はいるかもしれませんが,イライラしたことがない,という方はそういないと思います。どんなことがあると,人はイライラするのか,また,イライラしている時の感情や気持ちってどんなものなのか、そのようなことについて考えることは、とても大切なことです。

もちろん,「何となくイライラしている」ということもあると思いますが,やはり、そのこころの背景を探ってみると,「自分の思うようにいかない」といった思いが重なると、人はイライラしたりするのかなと思います。

人は、「思うようにいかないこと」が続くと、思うようにできない自分を責めることもあれば、思うようにできない理由を、「自分以外の周りの人が邪魔しているからだ」というような考えももってしまいます。そう考えるようになると、なんとなくですが、「自分はなんらかの被害を受けている」といったような感覚に陥っていきます。

自分が被害を受けているという感覚は、「怒り」という感情と結びつきやすいことで知られています。つまり、「イライラしている人」は、なぜか、「怒っている」のです。

「怒っている」ということは、「自分は他者から“被害”を受けている」と感じているということなのです。

 

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このように説明すると、「ちょっと待てよ!お前のイライラのせいで、被害を受けているのはこっちだよ!」と言いたくなります。たしかに、「イライラしている人」と接していくと、何かを責められたり、接した人がなんらかの被害を受けてしまうことは事実だと思います。

しかし、実は、自分が被害を受けているその前に、すでに、「イライラしている人」が、なんらかの、被害感に襲われていると感じているのも、また事実なので、まずはそのように考えることが対処の出発点のように思います。

そのような出発点に立つと、被害に襲われているということは、やはり、その人としては、おそらくそのことで、大変困っているのだと思います。したがって、「イライラしている人」が、困っていることや、「思うようにいかない」と思っていることについて、想像力を働かせてみることは大切かもしれません。また、かりに強くアタられた場合も、「あ、この人は今、すごく、困っているんだな」と考えると、少し、その人と心理的な距離をもって冷静に接することもできるかもしれません。

 

「触らぬ神に祟りなし」とよく言いますが、一時的な「自分への被害の回避」という意味ではいいことかもしれませんが、だれもその人に触れてくれないことで、その人の、「困った感じ」や「誰も助けてくれない被害感」は増幅してしまい、結果的に、「イライラ」がパワーアップしてしまう場合もあるかと思います。

最初は、ちょっとした被害であっても、次第に、「上司が悪い」「職場環境が悪い」、「日本社会が悪い」など、自分に被害を及ぼしているものをどんどん“勝手に”増やしていて、被害感を自らエスカレーションしてしまい、「怒り」がどんどん膨れ上がっているのかもしれません。

 

「イライラしている人」の前で、決してイライラせずに、冷静に、その人が感じている被害感や、「困っていること」に思いをはせたり、少しその人が感じている被害感に手助けができると、イライラしている人は、自分のことを「敵」ではなく、「味方」だと思ってくれるかもしれません。

 

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以上のようなことを実践するのは、とても、難しいことではありますが、「イライラしている人」に対する一番オーソドックスな方法ですので、一度勇気をもって、試してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

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ハロウィンと「自分らしさ」について

 だいぶ時間が経ちましたが,ハロウィンあたりに書いていた記事を,なぜかアップし忘れていたので,遅ればせながらアップ致します。すみません。ハロウィンと「自分らしさ」,僕達の実存について書いてみます。

 

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自分らしく生きることは、とても大切なことです。

 

しかし,自分らしく生きるということは,案外難しいことです。そもそも,よく考えると,「自分」というものを理解することが難しいので,「自分+らしさ」を見つけることは,余計に難しく,雲をつかむような話でもあります。

しかし,「自分らしさ」というものが,言葉として明確に表現されなくとも,『最近笑っていないな…』,『悲しいな…』,『なんか腹立つ!』等のネガティブな体験に包まれた時に,人はなんとなくですが,「自分らしくない感じ」に襲われてしまいます。

 

おそらく,カウンセリングルームでいろんな悩みを話すクライエントも,こころの底では,「自分らしさ」というものがなんとなく揺らいでいると,感じているのではないでしょうか。普段から,笑顔で振る舞い,周りの人達の間でも評判がいい方でも,また逆に,いつもブスッとしていて,まわりの人を案外困らせる人達も,もしかしたら,「自分らしくない感じ」を抱えていたり,素直に「自分らしさ」を表現できなかったり,場合によっては,「自分らしさ」を押し殺しているのかもしれません。

 

近年,ハロウィンで仮装することがブームになっている背景には,逆説的ではありますが,「普段の自分ではないこと」が,むしろ人々にとって,自分らしく感じてしまう,という心理が潜んでいることに関係しているのかもしれません。

非日常的なハロウィンこそ,「素」で,日常こそ,「ハロウィン」であるなら,僕達の「ハロウィン(=非日常)」は,毎日続いているようなものです。したがって,「どうせハロウィンなんだからマジになるなよ」と,日常にある種の距離をもって接することも大切かもしれませんし,無理に,僕達自身の仮装をやめさせることも良くないのかもしれません。

 

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しかし,いずれにしても,自分も含めた周りの人達の「自分らしさ」をめぐるパレードを見ながら,「仮装の中にいる“誰か”」を感じることは,世の中を生きていく上でて必要な,大切な「想像力」のような気がします。

カウンセリングの問題として置き換えると,例えばクライエントが、自らの言動をもって,「自分らしさ」をうまく表現できなくても,そのような「想像力」をもって接することができれば,目の前の人の「自分らしさをめぐる実存」を,僕達の関係の中に布置することが出来るのではないかと思います。

また,より大切なことは,カウンセラーもまた,ひとつの「カウンセラーという仮装」,クライエントもまた,「クライエントという仮装」であることから,「本当の自分と“あなた”は,一体何がしたいのか」ということの実存的な意味について,考えていくこが求められるのではないかと思います。

 

仮装は,「仮装」,仮装がマジにならないための「自分らしさ」を、大切にしていきましょう。

 

 

 

 

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トラウマとは何か(最終)~「こころのキズ」のメッセージ~

今回で「トラウマとは何か」については、最後となります。わかりづらい文章もあったと思いますが、お付き合いしていただきありがとうございます。

最後は、カウンセリングの現場で「こころのキズ」の問題に取り組む理由についてや、また、一見ネガティブに思える「こころのキズ」という問題が、実は僕たちに、とてもポジティブなメッセージを与えてくれていることについて、書いてみたいと思います。

 

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カウンセリングでは、「こころのキズ」を癒すにあたって、究極的には「トラウマ的な体験」を語ることを要求し、クライエントが、記憶を物語れることを大きな目標として考えています。物語れていくことで、「断片的な記憶」が一つずつ、繋がっていき、一度は引き裂かれた世界と自分との関係が修復され、記憶の複合体としてのまとまりがついてきます。最終的には、「自分の危機」として体験された圧倒的な記憶が、「昨日の夜、漢字を覚えた」というような「ありふれた普通の記憶」になれば、「こころのキズ」に悩むことはなくなってくると考えられます。

しかし、いきなり「全部わかるように、話して下さい」と、言うことはなく(そもそも難しい)、クラエイントの状態や、取り組みたい課題に準じて、クライエントのペースを大事にしながら、ゆっくり取り組んでいきます。時には、そのペースが早すぎる場合、こちらから、「今度にしておきましょう」と促す場合もあります。

 

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しかし、そのようなカウンセリング過程は、一筋縄ではありません。

そのことがいかに難しい作業であるかは、3回にわたって触れてきた「こころのキズ」の「理解することの難しさ」や、「こころのキズ」と、「体験」の問題、「記憶」の問題の関係を紐解いてみると、なんとなくですが、理解していただけると思います。

yjcounseling.hatenablog.com
yjcounseling.hatenablog.com

 

yjcounseling.hatenablog.com

 

それよりなにより、このブログを読んでくれているクライエントが、そのことは、一番よくわかってくれていると思います。

 

その作業の最中に、クラインエントは、圧倒的な恐怖や不安峻烈な“現実的な”な痛みに襲われたり、時には、その記憶にとらわれてしまい、日常生活がままらなくなることもあります。気分の落ち込みといったネガティブな感情に包まれることもありますし、どこから聞こえる自分をののしる声の存在(幻聴)に悩むこともあります。そのようなことがあると、「カウンセラーは、ただ自分を苛めているだけなのかもしれない」と、怒り落胆失望を感じることも場合によってはあり得ます。

 

では、なぜ、そのような難しくて、時にしんどい思いをしてまでも、カウンセリングでは、「こころのキズ」の問題に取り組まなければいけないのか。それは、単に、「トラウマ的体験」を物語れるようになることで、それが、「昨日の夜、漢字を覚えた」というような「ありふれた普通の記憶」にすることで、「トラウマ症状で困っているクライエントの症状を取り除くことができる」と考えているからだけではありません。

このことは、もしかしたら、「クライエントがヨクナルコト」に関係することなのかもしれませんが、それは、「こころのキズ」から、クライエント自身に感じてもらいたい、こころが発するポジティブなメッセージを受け取ってもらいたいからであります。そのことは、「症状の消失」より、本質的で、それ以上に、大切なことなのかもしれません。その本質的で、それ以上なことがあれば、たとえ、「症状」に苦悩することがあったとしても、人は強く生きていけるのかもしれません。

 

そのメッセージとは、一言で言うと、

 

「あなたは、“生きたい”と、強く思っている」

 

ということではないかと思います。

 

「こころのキズ」を負うということは、一件ネガティブに思えるような出来事ですが、実は、強く「生きたい」と、その人のこころが、訴えているということではないかと考えております。体験の話で触れたように、僕たちは、体験を通じて、「生きている」という「命の感覚」を得ることができます。しかし、このことは、あくまでも受身なものであり、控え目に表現しても、「生かされている」と感覚しか得ることができません。

もちろん、この「生かされている」ということを感じることも大切なことではありますが、僕たちは、もっと、世界や自分に対して、能動的な存在なのではないでしょうか。

僕たちの能動性は、人間が、「自分の危機」に瀕した時に、改めて気付かされるものではないかと思います。

 

「自分の危機」に瀕した体験を引き裂き、なんとか「自分」や「命の感覚」を保とうし、自らのこころにキズをつけてしまう所以は、僕たちが、「生きたいと思っているから」にほかありません。この「こころのキズ」の裂け目から光輝く僕たちの無意的な能動性に気付くことは、とても大切なことのような気がします。

もしかしたら、僕たちが、今、このように何気なく生活して、なんとなくですが、明日の夕飯を楽しみにできたり、「10年後は、○○」など将来を語ったり、当たり前のように「死なずに生きたい」と思えているのは、僕たちが、無数に体験してきた、「こころのキズ」を乗り越えてきたからなのかもしれません。さらに言えば、仮に「こころのキズ」がなかったとしたら、もしかすると、生きる意欲は湧くことはなく、自分の前になんらかの危機や危険が訪れたとしても、なんの躊躇もなく、自分の命をいとも簡単にささげてしまうのかもしれません。

 

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人は、「こころのキズ」を負うような出来事に遭遇し、その後、訪れる様々な苦悩に悩み、時には、「死にたい」と思うこともあります。災害や病などで、大切な人を失ったり、大きな失敗をしたり、誰かに差別されたり、いじめられたり、また、なにかしらの「こころのキズ」が、明確に自覚されなくとも、なんとなくですが、「生きていく自信」がなくなったり、「もう死んだ方がましだ」と、自分の人生に、悲嘆することも少なくありません。

しかし、僕たちのこころの底から湧き起こる、「生きたい」というメッセージに目を向けることができれば、どんな深刻な事態においても、自分に自信を持って、力強く生きていけるのではないかと考えております。

カウンセリングで、「こころのキズ」の問題に取り組む所以は、カウンセラーのみならず、クラエイントと一緒に、その問題に向き合って行きたいからであります。カウンセリングを通じて、自分自身を取り戻し、どんなつらい状況でも「あなたは“生きたい”と強く思っていたこと」を、一緒に感じて、思いだしていきましょう…。

 

 

 

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心理オフィスK

トラウマとは何か(3)~「体験」を複雑にさせる「記憶」~

今回は、僕たちの「記憶」という問題と、「こころのキズ」との関係について触れてみたいと思います。前回の「体験」も関わってくるので、まだご覧んなられてない方は過去の記事をご参照ください。

 

yjcounseling.hatenablog.com

 

僕たちは、いろんな体験を記憶しています。

例えば、「昨日の夜、漢字を覚えた」というような過去の出来事や体験しっかり憶えることができます。また、単に憶えているだけではなく、その出来事や体験を、物語ることができます。一見、ものすごくシンプルな記憶のように思える例えでも、このような記憶を物語れるには、かなり複雑な心理的なプロセスを経ていると考えられます。

上記の例えで言うと①その夜に覚えた漢字を、今日、再生できるという意味での記憶の問題と昨日の夜のひとつのエピソードとしての記述できる記憶の問題とが関係していることは、言うまでもありません。また、そこには、難しい漢字を書けるようになった時の、「喜び」や「興奮」、場合によっては、「鳥肌」といった、③感情的且つ、感覚的な記憶というもの当然、含まれるかと思います。

このように、少なくとも、ふたつ以上の次元の違う記憶の複合体として、僕たちは、過去の出来事や体験を記憶しております。それは、どの次元も決して欠くことができないものであります。

 

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このような記憶の複合体が完成することで、僕たちは、過去の出来事や体験を、はじめて物語ることができます。また、とても大切なこととしては、そのことで、「今」や「今日」という時間軸がはっきりとした感覚として浮かび上がり、過去の出来事や体験と、「今の自分」との繋がりができる一方、過去の出来事や体験は、「過去のもの」として、置いておくことができます。

記憶というと、当然、それは、「過去のもの」なのですが、過去のことを過去のこととして感じられるってことは、実は案外と難しいことなのです。余談ですが、夢の話で、その難しさについて、なんとなく理解できますが、皆さん、間違いなく昨日見た夢なのに、「なんかすごい昔に見た夢」という感覚に陥ることってありますよね。それは、単に、もっと以前に同じ夢をみたからそう感じる、という理屈では説明できない、とても不思議な感覚であります。

 

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 さて、「こころのキズ」の話に戻りまして、僕たちは、「トラウマ的な体験」をちゃんと記憶しているのでしょうか。

 

一般的には、カウンセリングルームに来られるクライエントのみならず、何らかの「こころのキズ」を負っている方は、その発端となっている「トラウマ的な体験」をうまく話すことができません。うまく話すことができない、という問題は、単に、そのことをうまく説明できないという問題だけではなく、先ほど、説明した、「昨日の夜、漢字を覚えた」という記憶の複合体として、物語ることができない、ということとなります。

具体的には、その体験を話している最中に、時系列がはっきりしなくなり、結局なにが起きたのかよくわからなくなったり、もしくは、全く覚えていなかったりします。

また、なんらかの圧倒的な感情(恐怖や不安、悲しみ等)や、場合によっては、その時の峻烈な感覚(痛み等)に覆われてしまい、それ以上が先が話せなかったりもします。

更には、どんな出来事や体験であったのかは、事細かに正確に話すことが出来るけど、どこか、「自分じゃない他人の出来事や体験」「架空の人物の物語」のように淡々と話される方もいらっしゃいます。そのような物語り方は、やはり、「昨日の夜、漢字を覚えた」という記憶とは、どこか異なるような感じをカウンセラーは受けるものです。

 

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そう考えると、僕たちは、「トラウマ的な体験」というものを記憶していないのかなと、思ってしまうのですが、結論的には、実はそうではないのです。

 

僕たちは、「トラウマ的な体験」を記憶しております。

 

しかし、前回でも、触れたように、「自分の危機」としての「体験」が、強引に引き裂かれたことによって、「過去の出来事や体験」が、記憶の複合体として、完成されないままになっているということと関係します。

たとえ、完成された記憶があったとしても、「自分の危機」を目の前にして、自分との繋がりを失い、記憶自体が、凍り付いてしまったともいえます。トラウマがよく、「凍りついた記憶」と表現されるのはその所以です

 

「未完成の記憶」であったり、「凍りついた記憶」であったりすると、それはそれで永久に再生されることのないものであれば、幾分そのような「記憶」に僕たちが、悩まされることはないのですが、やはりそうはいきません。

僕たちが、生活していると、自分や世界の「断片」に、「トラウマ的な体験の記憶の断片」がこびりついていることによって、どうしても避けように避けられないものとして、その「断片」に否応なく触れてしまいます。

僕たちは、その「断片」の記憶に大きく影響され、時に記憶の全体を俯瞰する能力が失われ、様々なトラウマ的な反応で悩まされてしまいます。時には、欠けている記憶によって、自分自体がなにか欠けているように感じ、自分を見失ったり、欠けている記憶を、なんとか自分で補おうとし、事実を捻じ曲げてしまった結果、今の自分との客観的なつながりを見失ったりと…。

 

このように、僕たちの「記憶」という問題は、そもそもとても複雑で、さらに、「こころのキズ」、「トラウマ的な体験」とあいまって、様々な苦悩を生み出すこととなるのです。今日はここまで。

 

 

 【今日のおさらい】

  ● 「記憶」とは、かなり複雑なプロセスを経て完成される

  ● 「トラウマ的な体験」は記憶しているが、うまく話せない

  ● 「トラウマ的な体験」の記憶は、「凍りついた記憶」

 

 

 

 

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トラウマとは何か(2)~「体験」から紐解くトラウマについて~

前回は、トラウマ(ここでは、「こころのキズ」)を理解することの難しさについて触れてみました。

yjcounseling.hatenablog.com

 

今回は、「こころのキズ」がついたときに、僕たちはどうなってしまうのか、ということについて書いてみたいと思います。本題に入る前に、少し、余談ですが、前回の記事に対するアクセスの数が、どの過去の記事に比べても多かったので、「こころのキズ」、トラウマという言葉への関心は、皆さんの中で高いのかなと改めて感じました。

 

さて、今日のテーマを説明するに当たって、遠回りのようですが、人間の「体験」という問題と、「記憶」という問題について、触れてみたいと思います。少し、小難しい哲学的且つ心理学的な問題も含みますが、できるだけ、分かりやすく書くように努めます(※正確さを求めるが故、やや回りくどくなる部分もあるのでご了承ください。)

 

僕たちは、生活をしていく中で、いろんなことを体験しています。そもそも、生活というもの自体が、ひとつの体験とも言えるのですが、体験とは、分かりやすく言うと、何かを見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったり、また、身体を動かしたりと、身体のあらゆる部位を使って、「世界と関係を結んでいくこと」と言えます。

 

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こうして「ブログを書く」という体験も、「ユンジソン」という存在が、パソコンや、キーボード、もしくは、ブログを見ている人達といった、自分以外の「世界」と、なんらかの関係を結んでいることから成り立っています。

関係を結ぶということは、なにか一方的に相手や世界に影響を与えているだけではなく、それぞれが、互いに影響し合うことを意味しています。また、体験とは、必ず、そのことによって、「自分自身の変化(変容)」というものを伴っています。

一番分かりやすい変化が、「感覚的な変化」です。おいしいものを食べ時に、「おいしいと感じる」、柔らかい毛布にふれると、「気持ちいいと感じる」、叩かれると、「痛いと感じる」といったことです。実際に、目の前に美味しいものがあったとしても、それを、食べてみて、身体の中に、なんらかの変化が生じなければ、「美味しいものを食べた」という体験にならないことは、言うまでもありません。

 

実は、このような体験、つまり、「世界と関係を結ぶ」ということと、「こころのキズ」という問題は、深く関係しています。結論からまず言いますと、「こころのキズ」がつくということは、自分自身が体験したショックな出来事、つまりそれは、その時いったんは結んでしまった(もしくは、結ぼうとした)世界との関係が、「とりやめになったり」「なかったことになったり」「切れ離されてしまう」ということが、起きることをいいます。

 

なぜ、そんなことが起きてしまうのでしょうか。

 

体験とは、先にも触れたように、「世界と関係を結ぶこと」なのですが、もう少し、話を掘り下げてみますと、僕達は、世界と関係することで、世界と自分との境界接線面を自覚することができます。

そのような境界や接線面によって、いうまでもなく、世界とは繋がっているが、微妙に分離されている「自分」というものを“体験”することができます。つまり、体験という話から、「自分」という存在について紐解いていくと、それは、体験の中に含まれる感覚的な変化の後に生じる、副産物のようなものだと言えます。この副産物として、「自分」を感じることは、僕たちにとって、とても心地よく、極めて大切なことでもあります。また、体験の中で感じる、「自分」という容器の中に、「自分自身の変化」という現象が“既に”取り込まれていることによって、僕たちは、「生きている」という「命の感覚」を得ることができます。

少し話はそれますが、自傷行為リストカット等)をしてしまう背景に、自分の身体を傷つけ、そのことによって、痛みというプリミティブな感覚の変化を感じることで、「自分は、まだ、生きているんだ」と感じてしまう心理が潜んでいることを考えると、この体験の問題とよく似ているのかもしれません。

逆に言うと、そのような体験を持たざるを得ないほどの「自分じゃなくなる感じ」が前提としてあるということ、また、その前提を抱えた時の恐ろしいほどの恐怖感が、なんとなくですが、理解ができ、その辛さがクライエントの語りからひしひしと伝わってきます。よく、自傷行為について、世間では割と「みんなの気を引くためだ」とわれることも多いですが、それは、まったくの大きな誤解だと言えます。

 

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さて、本題に戻りまして、「こころのキズ」がつくという出来事とは、自分自身の命や心の危機に瀕する出来事によって、心理的なショックをうけることであります。そのことは、前回のブログでもふれたように、それは、「自分という存在の危機」として体験されます。しかし、そもそも、体験とは、「自分」という存在や、「生きている」ことの自覚を与えてくれるものですが、このトラウマ的な体験も、体験の一つなので、まさに、一機にその相反する感覚がぶつかり合うことになります。この体験によってぶつかり合う生死をめぐる矛盾が、「こころのキズ」の前提となるのではないでしょうか。

 

その時に、僕たちのこころが、そのことの矛盾に、どう折り合いをつけて、「自分」という存在を保つのでしょうか。その方法が、まさに、先の結論でも申し上げた通り、とりあえずは、そのトラウマ的な体験、つまり、「トラウマ的世界との関係」を一旦、「とりやめにしたり」「なかったことにしたり」「切り離す」という選択をすることで折り合いをつけてしまうのです。

しかし、一旦はその時、「自分」という存在と、世界との境界と接線面は、大きく引き裂かれ、「自分があいまいになり」、「自分の変化」が感じられなくなり、生きている心地はなくなります。なぜなら、一度は関係を結んだ部分を、強引に断ち切るわけですから、場合によっては、断ち切られた世界のほうに、「自分」が残ってしまったり、切り離された世界と一緒にえぐられた「自分」の部分に、世界の断片がこびりついたりするからであります。

 

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そのような状態の中で、次第に、自分を取り巻く世界が、凍り付くような感覚(時間がとまったような感覚)に襲われてしまいます。このことは、よく交通事故に体験した方が共通しておっしゃる、「スローモーション」として理解することができます。

 

このような、一時的な混乱を乗り越えると、徐々に元の自分に戻っていきます。そのような形で、逆説的且つアクロバティックな方法をもって、かろうじて、僕たちのこころは、「自分」という存在を守ろうと働いてしまうのです。

しかし、このような変則的、事故的な方法によって、ある種の体験から、自分を守ることができるのかというと、短期的には可能であったとしても、長期的には無理が生じてしまいます。

そのことは、後に様々なトラウマ反応の表出によって明らかになってきます。その象徴的な現象が、フラッシュバックといった追体験なのですが、先ほどの説明でもあったように、切り離した世界と一緒に、自分の一部も失われていること、また、断片的に世界が自分と結びついていることから、「断片的体験」としての「危機」はどうしても残ってしまうのです。

実は、そのような、「断片的体験」として「危機」が、短期的には、自分を保てていても、長期的には無理が生じてしまうものリスクとして残り、そこに、さらなる拍車をかけてしまうもの中に、僕たちの「記憶」という問題が深く関係しているということなのです。

 

今日は、ここまでとして、次回は、「記憶」の問題について、書いてみます。

 

 

【今日のおさらい】

 ●「体験」とは、「世界と関係を結ぶこと」

 ●「体験」を通じて、「自分は生きていること」を自覚する。

 ●「トラウマ的体験」は、「自分の危機」と「自分は生きている」という矛盾の衝突

 ●  矛盾の折り合いの付け方が、「世界と自分を切り離すこと」。

 

 

 

 

 

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